ショックだ。全部が全部の主張では無いが。
いくつかのNPOの現状、私が全て悪い?というのが特に身内の多くの見解だった。私が、がんばってしまったから悪い?と。私には責任転嫁とか、放棄にしか聞こえないが、一般的には知らない。正直、私も既に自分の感覚が信用できないと感じてきた。
もしくはこんな事、主張する人も外では余り派手には言わないだろうが(爆)。
皆、本当はNPOで「そこまでは」やる気が無かったと言う。
でもがんばっている人が居たから任せた、という事で。
だから皆、私が上手くやってくれるだろうと期待し、何でもかんでも、お願いしていいものだと思っていたらしい。あれもやりたい、これもやりたい、やってくれ、と。そして多少なりとも予想以上に期待に応えてくれるから、もっともっとお願いしても良いものだと思っているらしい。あいつは好きでやってるからとか、上手くやってくれるからどんどん任せただけ、と。
それが何か、最近は、私が不満を言う(苦笑)。もっと自主的になれ?自律しろ?理事として経営を考えろ?責任感を持て?
私個人は、もっと皆が自主的に動けるように、気軽に呼びかけられる様に、周囲と繋げる様に、連携できるように、お手伝いしていたつもりだった。書くほど単純ではないが、NPOの理想とか、もっと関係者の熱意や善意を信じていた。そう、私も何か手伝っていた感覚だった。役割の一つとして。
しかし、殆どの周りは、私に、私自身の責任として、自分の思い通りにやらせる事ばかり考えていた。逆に私に全てをやらせるつもりで、私に丸投げしてそれでいいと思っていた。組織化の際もそうで、運営の殆ども、私を当てにしての事だったらしい。名前は貸すから、後は全部上手くやってくれと。もとから、好んで関わるほどの熱意も、自主性や主体性、自己責任感などは無かったのか。
大きいギャップだ。人や周りに押し付けて、無理にもがんばらせて、自分だけは楽をする?無責任で居られる?NPOは特別?
私がやらないんなら、やってくれないなら止めると言う。NPOも、組織も解散し、全て辞めるという。
まぁそれならそれで良いのかも知れない。「俺がやった事にお前が全て責任取れよ!」と命令されるのは異常だ。
私がもっと勤勉に、上手くやらないのが悪い。NPOの仕組みや理屈として、それが通るなら、そのとおりだろう。 社会的にも、組織の経営に貢献し、勤勉に努めるのは全体の2割だけという。それが社会心理、世の中の「秩序」だ、と。
だが、もう終わった。ちょうど、そんな対人的な不信感も強まったところ。私個人は再起不能だ。NPOって何だろう。
グッドラック。世代交代を願う。私は沈んで、次の人の足場を固めよう。
ちゃんと動けば、継続は可能だ。浅はかな計算や、思い付きの冒険ばかりではなくて…。
庄内NPOセンターも、仮に常に人は居ないまでにも、場の運営だけは、仮に行政支援が無くてもやれる。理想に傾倒し、地に足が着かない経営から脱却し、身の丈を考えて行動する。個々人の主張を乗り越えて、理解しあう努力をして、協力し合う。そしてまずは何より、組織の自律を目指したい。そしてその上での発展を考えたい。目立たず地道で嫌かも知れないが。
卵が先か、鶏が先か。人が居ないから自律できないのか、自律が出来そうに無いから人がいないのか。もう思考が混乱気味(苦笑)
ま、いいんじゃないっすか。私1人が悪者で、引ける幕があるなら。
でも本当に、どこの地域でもこんなものなんだろうか。いいところはいいし、がんばれているところは健全だけど。そのあたりも、私にはもう解らない。評価というのは、基本的には周囲がするものだ。あまり自画自賛は好きではないし。
私が全て悪い?
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2004年11月4日
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