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はじめてNPOに関わってから、ほぼ役員会の決議に従い、黙々と実務をこなしていた。
講座やコンサート、各種イベントなど普及事業以外にも、コミュニティビジネス、エコマネーなど、前例の無い事業ばかり。また、「庄内市民活動センター」を法人化し、鶴岡市に拠点を置くのNPO法人として本格的に動き始める。
クレーム対応、地域課題の克服、現場の運営方法、NPOが必要とされている理由、意義・・・。
上手くいけば上手くいくほど、どんどん増える業務。
悩み続けて徐々に自信を得始めたころで、その組織の経営の方向性は、だんだん地域や市民との乖離が始まり、やがて限界が来たように思えた。
■ 愛と笑いのNPO運営日記 / 2004年6月1日~
周囲の期待と要望から、独立して「庄内NPOセンター」を設立し、センター長に就任。
入居団体の会員総数は400名以上、それ以外に、庄内NPOセンターのサポーターだけで60名。
ところどころ課題はあったが、順調な日々。過去の経験から得た手法と経営理念、周囲の力強い協力により、過去3年で成し得なかった成果を1年で達成した。 経営も軌道に乗り、このまま上手くいくかに思えた。
しかし、ある日、
「私が今度、代表理事になったNPO法人、上手くいってないから経営の面倒みてくれや。あとは宜しく頼む。」
そのNPO法人は、以前から何かと問題があり、誰も近づきたくなかったし、距離をとっていた。
庄内NPOセンター運営協議会のメンバーで話し合いの結果、その依頼?を断ったのが始まり。
ある程度の予想はしていたが、案の定、そのNPOの代表者から電話があり・・・
「極めて不愉快だ、私の言う事を聞かないNPOは潰してやる、徹底抗戦だ! NPOなど、どうでもいい、これは私の面子の問題だ!私の言うことを断ると、どうなるか解ってるんだろうね、色々と手を回させてもらって良いんだね? 私の言うことを聞けない人が組織の長であるのはおかしい、A君にセンター長を代わってもらう。 彼はその気があるし、私は彼に恩義もあるからね!」
確かに歴史ある家柄であり、おそらく、この地域の経済界でも影響力を持つ御方であった。
「どうなってるんですか、Aさんの言うことを聞かないと、私はクビなんですか?」と、事務局より電話がきた。
どうも、某NPO法人が、庄内NPOセンター内に事務所を引っ越してくる、その後の某NPO法人の業務について、Aさんが色んな要求をしてきて、断ったらクビだと言って来た、と。
「そんな訳ない、こちらが了承してもないのに、自分達で決めたから勝手にここに引っ越してくるなんて、極めて非常識だし、Aさんは庄内NPOセンターの役員でも会員でもない。 君をクビにする権限も何も無い。」と安心させる。
しかし、どこをどうなると、どういう企業が動いてこうなるのか、家賃を滞納した訳でも無い、問題を起こしたわけでも無い事務所の立ち退きまで、不動産屋さんのほうから話題にしてきた。
あくまで「私の言う事に従わなければ、庄内NPOセンターを潰してやる。」という脅迫的・圧力的な態度に、関係者の大多数が頭に来た、そんな人たちの言いなりになって、NPOの悪い実績を残したくない、理念を貫きたいと、最終的には庄内NPOセンターを自ら移転した。
既得権益構造に飲み込まれたり、暴力や圧力、陰湿な嫌がらせの下には、絶対に屈したくなかった。
庄内NPOセンターは、誰かの家柄や面子、誰かが目立つために、個人の顕示欲やわがままを満たす為に、やっている訳ではない。障害を持った子どもを支える親は、そんな事のために活動をしているのではない。大袈裟だろうが、この庄内地域での、地域住民による自主的な活動や事業、NPO・ボランティアの理念や精神性を、私なりに守りたかった。長いものには巻かれろとは言うが、この地域の市民の動きやNPOを、こういうやり方で動かされる、悪い実績を作りたくなかった。
甘すぎた考えだったかも知れない・・・。
しかし、でなければ、その後、皆が本当に必要な活動や事業が、責任持って出来なくなるではないか?
ただ確かに、これにより、せっかく集まった「協働事務所ネットワーク」も解散を余儀なくされ、「鶴岡オフィス・酒田オフィス間の人材と情報の連携」「庄内NPOセンター=庄内地域の色々な分野のNPOが集う、市民相互の、地域課題を解決するための総合病院化」計画も、とん挫した。
歴史も絡むこの地域構造と、代々の家柄と面子の問題、新しいこと、成功の後の難しさを感じた。
鶴岡アンダーグラウンド。中止した事業、離れた人材、信用も含め庄内NPOセンターは大損害だった。
危機管理が甘かった。 移転・実質の解散について、私自身、一部から社会的に無責任との批判も受けた。
■ NPO運営日記 だめセンター長の逆襲 / 2006年1月~
失ったものは大きかったが、完全に諦めた関係者も居なかった。圧力をかけて来た本人も、まさか、庄内NPOセンターが自ら移転してしまうとは思ってなかったそうで、血圧も上がって寝込んでしまったとか。
自分がそのような社会的な圧力を用いた事は、無かった事にしてほしいと、絶対に公にしないで欲しいと、人を介して連絡してきた。まったく自己中心にも程がある。
また、某NPO法人の理事のAさんからも、「あれはKさんが1人でやった。代表理事でなく個人的にやったことだ。うちのNPOには関係ない。私は関係ない。私は知りません!」 と・・・まぁ、仕組んだ本人が(苦笑)。相変わらず。これまでも、お金も約束も、最後はいつも「私は知りません!」で通してきた人だ。
その割に、再度、「もう関わらないし、頼むから公にしないで欲しい。どうにか、情けをかけてくれないか。」と。
某NPO法人は、名称も変更し、結局、事務所も商店街の中に移転した。以後、庄内NPOセンターや、他のNPOの運営に口を出したり、嫌がらせをしないという約束をして。(さすがに念書は書かなかったが)
がっかりしながらも、庄内NPOセンターの立てなおし、ネットワークの再構築を進める中で、地域のNPOの一連の動きを見ていた複数の企業が経済的に支援をしてくれた。
前回の混乱から不信に陥ったボランティアスタッフも、徐々に戻りつつある。
あらたな体制の下、徐々に活動をはじめてはいるが・・・
同じ場所への集結と、表立っての連携は、また狙われる可能性があるため分散を維持。
再起動まで、3年か、5年か、10年か、時間は掛かるだろう。戦力を温存しつつ、ノウハウを高め、時期を待つ。
上手くいった瞬間に失敗する。 成功すると、人は変わり安い。人は難しい。
皮肉なことに、苦しい中で頑張っている時こそ、団結し、上手くいっていた。 皆に充足感があった。
成功して資金にゆとりが出来て、人が集まり、情報も集まり出すと、色んな影の思惑も表面に出てきたり、人も変わっていく。 ゆとりが出来ると、逆に動かなくなってしまったり。
「応援するから、がんばれ、がんばれ。」と言っていたはずの人が、時には寄付をしてくれた人が、「なんで俺の言うことを優先して聞かないんだ!俺の思い通りに動け!」と言うようになってしまう。
経営が軌道に乗ると、組織の運営、資金、人の動きについて、自分の意見を権利として主張し始める人が出てくる。
そういう人が強くなると、上の立場に食い込んでいると、組織活動は本来の目的からどんどん逸脱する。また、外からも色んな思惑が持ち込まれて来て、スタッフも混乱しやすくなる。
組織の発展過程で、分裂期はあるだろうが、それとも違う。 常に、敵は内にあるような・・・哀しさが残った。
いつの間にか「自分の言うことを聞かないボランティアはクビだ!」という理事が出て来てしまう。
が、希望はある。
庄内NPOセンターは、鶴岡市大山に移転。体制も大きく変わった。
いくつかのNPO法人の理事は務めつつも、私はおおよそ、NPOの「最前線」を退いた。
大山への移転後、改めて振り返って・・・
「こんな事を言っては何だが、市民がまだ未熟だったのだ。」 「仲間づくりに失敗した。特定の人、あの人と関わると、何でもおかしくなる。」 「NPO法人は、表面的に賛同する人、関わりたいという人を、広く受け入れなければならない。会社であれば、社員を選べる。県庁の担当者とも相談したが、NPO法人には、入りたいという会員(社員)を、原則入会を拒否しないようにとの事だった。確かに、定款に排除規定はあるが・・・また入会に対して、高額な会費やハードル・条件を作るのは、県として、承認する側として認め難いと。結局、誰にでも入り込まれてしまいやすいのは、意外とNPO法人の致命的な欠点ではないか。」 「こういう市民的な組織が大きくなると、そこを利用したい、そこで騒ぎたいという、おおよそ、それだけの活動家も出てくる。そこにもっと注意するべきだった。」 「某NPO法人が、人も資金も信用も失い、運営できなくなった原因の中心はAさんだが、それでも、Aさんも、自分なりに、自分の思い、やりたい事、自分自身とその活動基盤を、どうにか守ろうと必死だったのだろう。また、自分こそが、この地域でNPOを一番やってきた、自分が中心なんだ、という自負が、強い思いが、どうしても譲れなかったんだろうね。自分が上手くいかなくて、周りが上手くいく状況を、特に、石塚くんみたいな若造からやられたら、Aさんなりのプライドが許さなかったんだろうね。そういう面子の問題は、世の中たくさんある。勿論、だからと言って、あんな圧力的なやり方や、嫌がらせなどは、到底認める事は出来ないが・・・。」など、色んな話しあいも行われた。
しかし、かえって、私自身は視野が広がったと思う。これまでの経験がある故の、物の見方の広がりを感じる。
地域を良くするとは何か。 住みやすい、楽しい、便利、明るい、繋がっていく、学んでいく地域とは。
今後の糧にして、前向きに進んでいこう。