今日は母親と子供と一緒に、昼前から庄内3大祭の一つと言われる大山犬祭を見物しにいった。
庄内NPOセンター・鶴岡オフィスのすぐ近くの親戚宅に招待を受けていた。
昼食を頂いた後、午後2時過ぎくらいに本通りまで出て行列を観ていると、一昨日もお披露目会で同席したS氏も行列について歩いており、持っていたお酒を注がれる。その後、地元の企業の人、小学校の先生、からぐり保存会の方々など、振舞い酒を持って行列について歩く人(お祭り版サイドウォーカーとでも言うか)に次々と日本酒を注がれ、また周囲から紹介を受けながら話すと更にお酒を注がれるため、短時間で酔っ払った。
途中、最近出来たらしいボランティア団体の話を聞いた。
ある代表者から相談を受けているという人で、「組織を作ったものの、誰も協力してくれない。市や社会福祉協議会がもっと支援してくれると思っていたし、立ち上げれば皆がそのように協力してくれると聞いていたから代表者になったのに。良いことだね、がんばってね、と趣旨には賛同してくれても、予算的にも実務的にも、どこも大して手伝ってくれない。内部の者も、私も実際に実務はよく解らないし、他に人も集まらない。思いで始めたはいいが、余りうまく出来る人が居ない。大学院などにも協力や連携を呼びかけているが、反応が薄く、いきなりだが、これからどうしたら良いか方向も定まらず、不安で仕方ない。大々的にPRもした後で、内実どうしようか…。」
だそうで、どうしたらいいと思います?
というものだった。
いやぁ、まただ、どうしたいんだろう(苦笑) まぁ、まだ任意団体ならそれでも良いのだろう。それも誰しもが通過する成長の過程ということで、試行錯誤でがんばって欲しいと思う。
それはともかく、最近、客観的に考える余裕からというか、外から市民活動とか市民というものをふと考えるとき、一部なのだろうが「わがままなところが、どんどん、わがままになってきたなぁ。」と思う。あくまで自分個人の思い通りにいかないと気がすまないというか、自分中心過ぎると言うか、周囲や関係のことを殆ど一切考えてない。な~んか、ちょっとでも自分の思い通りにならないと、すぐ「誰のせいだ?」と言わんばかりに文句臭くなる人が増えているような気がする。たとえ自分に非があっても認めず、逆に非があることを指摘したりすると、逆恨みされてしまう。
どうも社会性の問題なのだろうか。個人の時代と言うのは、自分のことを一方的に主張するばかりで、または自己満足のために相手の意見や周囲の状況は軽んじて構わないという事なのか。
個人が大きくなる中で組織や社会が形骸化し過ぎているのではないか、という話に近いが。
市民社会とは、市民とは何か。超わがまま個人社会なのか(爆)
市民という匿名を盾にすれば、特に公(社会)に対しては無責任で良かったり、わがままも全て許されるというイメージがあるのだろうか。
権利意識や個の主張は全般に強くなってきたと思うが、義務や責任についてはどうなのだろう。…何ていうと市民的でない、何様だとでも思われるのだろうか。
最近、そういう事に触れる機会が多めで、ちょっと感覚が解らない。
テロリズムに近いんじゃないだろうか、などと勝手にふと考えてしまう(苦笑)