私はめでたく父親になった。


本日の午前3時頃、隣で寝ていた妻に頭を叩かれ起床。一瞬で悟る。そして妻が入院。そう、そして正午過ぎ、私はめでたく父親になった。とても元気な男の子。妻共々、感無量だ。同時に、何か人生の転機を感じさせるようでもある。はぁ…でも超かわいい(笑)
最近はもう、妻の方がボーナスもあるし、稼ぎもいい。公に属しているので、景気の波に強く、多少社会体制が変わったり、合併や何だからといって、クビになるとか、給料が下がるというのは、まだ心配ないだろう。なので、お父さんはしばらく育児休暇を取って、在宅仕事をメインに子育てに力を注ぎ、反面、現実問題として採算性が低過ぎる、家族生活(コミュニケーションや財政)を圧迫してやまないNPOの関わりは減らしていこうか。いやいや、逃げるわけではない。それは、男性の育児休暇という、現代の社会問題に積極的に取り組む姿勢とも言えよう。これぞ真のNPO魂。ま、さておき(爆)。
NPOの仕事は、私が個人で勝手にやっているわけで、それで給料を大分稼げている訳でもなく、本来的に責任の範囲で、何をやる・やらないは私の都合で構わない訳だ。他にどこのNPOの誰が何をやる事になったからって、どうにかしてくれと土下座されたからと言って、私が必ず関わらなければならないとか、手伝わなければならないとかいう理由は無いのだ。筋として当然だ。ふっふっふっ。
しかし相変わらず、私が知らないところで、いつの間にか私にやらせる、私がやる事になっている、私が実質動くという形で仕事が増えているのが困った事で。もしくはNPOの仕組みというより、「NPO関係者」特有に近い、個人の資質の問題だろうが。人の名前で仕事を引き受けてくる様なものだ。皆、自分で引き受けた事を自分でやれなくなって、周りに負担とその責任を押し付けあっている。その結果、信用を落としたり、嫌われたり。頑張っている様で評判が悪いというのは、そこら辺に落とし穴がある。人が良いからタダで引き受けるのは個人の勝手だが、それを更に無料で人に廻したり押し付けたりするようでは、あまり有り難いとは思われないだろう。
ま、そんな中、昨日は夜まで「山形VS若者」という、別名「滝口さんと10人の変態たち」らしいが、県内各地の20~30代の活動家が、その活動と展望を語るシンポジウムとパネルディスカッションがあり、活動報告とパネリストという事で出席させてもらった。村山総合支庁主催で、これからの山形をどう創っていくか、というのがメインテーマだ。しかし私としては「いつ生まれるか解らない。」「早く会いたい。楽しみだ。」「しかし、親になる…。どういう事なのか。」変な気持ちが思考回路を阻害し、特に連絡があった午後は動揺し、混乱していた。滝口さん、ちょっと話がズレたりしてごめんなさい。
今回同席させて頂いたメンバーは同世代、地域は多少違えど、同じクリエイティブな現場の苦労や楽しさがわかる間柄と言うか、社会の空気に対して同じ事を感じていたり、貴重な経験や感性、技能を持っていたり、単に理想だけでものを言ってない人達なので、そういった部分では他と違って気が許せるというか、考えの中で共通項も多い様で、本音も言えるというか、より自分らしく居られるというか。いつもは「普段は馬鹿で軽薄なおにーさんの表面的でない部分の本音が解る?考えが解る?そりゃ変態だ。」と言ってからかったりもするものだが、まぁ俺は変態だとかいう人は、そもそも面白い(余り変態、変態という文章もマズイが)。ま、長い付き合いになりそうなメンバーで。


私は能力は高くないし、博学でもない。関係者は良く知っている(苦笑)。ただ少なくとも、NPOというものを本気で実践し、挑戦し、考えていこうと、また継続していきたいと思った(思っている)。そしてある時から、NPOとはこうだ、こうあるべき、という制度が求めている理念や周囲の期待と、関係者の言動と、その実質・実態を整合させたい、そうしなければと思うようになった。庄内NPOセンターは、その理念や期待の具現を、また実態との整合を、未熟ながらも求めたものだった。
その理想と現実のギャップを生じさせている暗部を隠すために、無理をしたり、自分を犠牲にしたり、現実逃避したり、自己嫌悪化した事もある。そういった面で、私は理想に固執していた。おそらく自分の為に。NPO自体への評価、主体的に関わる自分自身への評価を守る?ために。でもその理想と現実とのギャップの整合は、この量と範囲が増大する中で、既に1人では不可能となった。
NPO法人の理事といえど、もしかすると事務局長といえど、肩書きばかりで本当に動かない人が多少なりとも居り、下手をすると名前ばかりで、元から経営に関わる事を拒否する人も居る。組織に属しながらも、もとから関係ないという態度だったり。いや、別にNPOに限らず、行政でも企業でもある話だ。しかし実際、現状のNPOでは、それが組織内部の割合的に、許容範囲を超えている。何%という具体的な話では無いが、多すぎるのではないか。組織の経営権、判断基準がそこにあるというのに…。
法人の数も、分野も増えた。だが動いているのは、どこのNPOという組織という看板を被ろうが一部の人間、もしくは限られた人間だ。社員が職員が必ずいる訳では無い中、掛け持ちして対応している人も多い。
朝令暮改な支持に振り回され、その責任まで押し付けられる現場(事務局)は、持って1年か、半年。
身勝手、わがままな人達、情熱と行動の権化の方々にとっては、サポーター(ボランティア)や事務スタッフは、消耗品以下。
このままでは、それがNPOの「一部」と言い切れない様になり、表面的に取り繕えなければ、まずNPOは市民という基盤から支持されない。何故なら、真理として、協力を求める、協力を求めたい人こそが率先して動かなければ、人は付いてこない。本来、先頭に立つべき人、オピニオンリーダーが怠慢であれば、言うだけでやる気が見えなければ、計画性もビジョンも示せなければ、周囲のモチベーションは期待できない。人を大切にしなければ、育たないし集まらない。それは、今の私自身への戒にも近い…。
それを表面的に、対外的に隠せなくなりつつある。隠せない。本当にNPOって皆が頑張ってるの?使命感とかミッション持ってやってるの?地域とか市民のことを念頭に考えているの?
もしくは当初、社会的な流れからのNPOというシステムへの期待感、非営利というどこか崇高なイメージを、その名称を、皆が勝手に利用しただけに過ぎなかったのではないか…。なぜこんな大変な組織の役員になりたいのか?なっているのか?なって何をやっているのか?
皆に、仮にも理事とかプロジェクトリーダーとか言う人達に、そろそろ今まで以上のやる気を出して欲しいと、促している。自分は何も動かずに、事務局やサポーターに全て依存するな、と。
アイディア出したり、物事を考えたり、夢や理想を語るのは確かに楽しい。だが、仮にもNPO法人である以上は、それだけで終わってはいけない。実現に向けて行動に移したり、努力をしていかなければならない。「だから、それを誰かがやってくれ。」でも啓発にはなるのだろうが、NPO法人としては、余りにも消極的で弱い。
そんなこと言ったって実際は「仕事や家庭サービスで忙しい。」「今は他の活動で忙しい。」「誰かやれる人にやってもらうしかない。」「理事といえどボランティアだから。」などなど。仮に自分を納得させる、身近な相手への言い訳としてはそれで十分だ。私もそう言われたら、もちろん本意ではないが、おおよそ「解りました。」「仕方ないですね。」としか答えられないだろう。そして、それを、現場を支えるサポーターや他のスタッフに伝えるしかない。
より多くの周囲の見方は厳しい。それで済ませる訳が無い。じゃあ「何でNPO法人になったの?」「その程度の団体に法人格が必要なの?」「もとから責任果たせないなら、もっと楽なやり方でいいんじゃないの?」
「私はこういう事をやりたい!皆に協力して欲しい!」と言った以上は、その事に協力してもらうだけ、自分も積極的に努力をしなければならないし、動いて示す必要がある。仕掛けたほうが「ごめん、俺は他で忙しいから、あとは皆で責任持ってやってくれ。」では、たとえやり遂げたとしても、周囲は「騙された、もう信用しない。」としか思わない。それが一般的だろう。
周囲に協力や努力や犠牲を求めつつ、それを賛美しながら、自分では努力も何もしない。かといって金銭的対価どころか、精神的な満足も与えられなければ、次は無い。どんな理想や大義名分があろうとも、次々に人を騙していくようでは、犠牲にして磨耗させていくだけでは、長くないし本物にはなれない。
色んな人と関わり、特に同世代の人との交流の中で、つくづく、人を大事にしたいと思う。人との関係を貴重にしたいと思う。であればこそ、平気で信義を疎かにしたり、人を裏切ったり、周りの事を考えない人には嫌悪感を覚える。それがなくては、物事を進められないし、それを欠いて出来たものには、意味が無い様にさえ思えてしまう。せめてNPOでは。

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